[まちの元気じるし](株)松乃井酒造場:川西町商工会(商工連ニュース14年4月号掲載)
![]() 代表取締役 古澤棟子氏 |
(株)松乃井酒造場 中魚沼郡川西町上野甲五十‐一 TEL 0257‐68‐2047 FAX 0257‐68‐3927 |
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![]() 社屋全景 |
![]() 県道脇の会社看板 |
「松乃井」という銘柄の清酒で知られる当社は、明治二十年代に十日町の酒蔵から分家して川西町で開業したもので、造り酒屋としては比較的歴史が浅い方です。
今では本家も他の分家も酒蔵はやめてしまい、最終的に酒蔵として残っているのは当社だけとか。
開業当時は現在地より高い位置に立地していましたが、その後、良い水を求めて現在地へ大正初期に移ってきたもので、今でも当時からの横井戸を使用。建物は時代を感じさせる重厚な作りとなっています。
昭和四十年代頃の清酒の最盛期には出荷高千三百石程度、それが現在は千石(百八十キロリットル)程度と減少。しかし、桶売りが半分だったという当時に対して、現在は自社銘柄だけの数量であり、小規模ながら立派な実績といえるでしょう。ちなみに県内全体の酒蔵の出荷高は七万六千キロリットル(平成七年度)です。
従業者は十人、他に仕込み時期だけの酒造工は六人程。昔は時期になると寺泊などから杜氏が数人引き連れて来ていました。今は、地元のタバコ栽培農家が冬仕事で手伝ってくれています。現在の杜氏は十数年になる小千谷の片貝の人で、親も杜氏だったとのこと。
酒の流通には、問屋に出荷、小売店との直取引、消費者への直販がありますが、当社は近在の小売店を中心とした取引が八割程度。他には地酒専門の問屋などを通じて関東圏辺りに出ています。小売免許もあり、看板を見て立ち寄った人などに直販もしています。また最近では、ホームページを見てメールで注文する人も。
社長の古澤棟子さんが嫁いで来たときには、ご主人が若くして三代目社長でした。
ところが昭和四十八年十二月下旬、その年の酒造りが開始されてまもなく、突然ご主人が脳溢血で亡くなったのです。棟子さんが三十一才、長男十才、次男九才、娘が五才でした。
親類中で相談を重ねても継ごうという者が誰もいません。二週間以内に新代表者を登記しなければならず、しかも年末閉庁で実質的に一週間しかないという切迫した状況で名前だけでもと説得されて社長になったとのこと。
実家からは子供と一緒に戻って来いとの誘い。しかし、墓地で長男と次男が言った「お父さんだけお墓に置いてくるのはかわいそうだから、ここにいようよ」その一言が決め手だったといいます。また、親戚の酒蔵が全部委託醸造として引き取ろうかとも言ってくれました。しかし「それでは自分の酒ではなくなる。ここはなんとしても、自分の酒を造らなければ、という一念でした」と、社長就任の経緯には、実は悲壮な覚悟と決断がありました。
一方、ちょうど前社長が亡くなる年までは、清酒製造には規制数量(製造数量の上限規制)があり、そのため大手は大量の桶買いをしていましたが、昭和四十九年から生産が自由化され、多くの小規模な蔵が淘汰されていったのです。
棟子さんが社長に就任された時は、まさに業界を揺るがす変革の真っ只中だったのです。「私も若いし子供も小さいので皆さんの同情もあったんでしょうけど、蔵の者たちにも頑張ってもらい、なんとか乗り切ることができました。子供が大きくなっていたら、どうしていたか分りませんね。なんとしても成人するまでは、と思っていました。回りの方々から力添えしてもらい、無我夢中でやってきて、あっという間に約三十年が経ちました」と振り返られました。
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![]() 貯蔵室にて社長と安藤杜氏 |
会社運営に対するお考えについて「醸造は『かもし、つくる』であり、人の和がきちんとなっていて始めて良い酒が出来るんですね。
私は何といってもそれが大切だと思って今日まで来ています。本来、企業はそうじゃないんでしょうが、少なくても私の代までは、蔵のみんなが家族のようなつもりでいきたいですね。」と酒蔵ならではの、そして暖かいお答えが返ってきました。
「長男は営業担当、二男は製造担当として当社に従事しています。男の子たちには、いやだったら来なくても良いよと言ってはいても、内心これで終わってしまうのでは残念と思っていました。結局、子供たちなりに判断して、長男はアルコール会社でお世話になってから、また、次男は県醸造試験場で二年間の研修を受けて戻ってきました」。
ちなみに、ご二男は商工会の現青年部長としてもご活躍されています。
松乃井では時代の波にもまれながら危機を見事に克服し、後継者に恵まれ、さらに去年は国税局酒類鑑評会の春秋に入賞、全国新酒鑑評会で金賞と三冠に恵まれました。
この暖かい棟子さんの下、今後も身近な酒蔵として愛されていくことが予感されました。