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 八代将軍吉宗公の享保年代の初期の頃、旱魃と長雨のため、上越地方は大変は凶作となりました。
 そのため、農民の生活はどん底に落ち、餓死者、一家離散はどの悲惨がいたる所に続出しました。

 特に潟町地方の悲惨な姿は目を当てられはいほどのものでした。庄屋達がこの窮状を幾度となく川浦代官に訴え、「この若しみを救ってください 。」とお願いしましたが、顧みられませんでした。

 当時、潟町をはじめ犀浜一帯は幕府直轄の領地で、川浦代官所の支配地であったため、高田の殿様とは無関係だったので、高田藩の助けを受けることもできない状況でした。

 そうこうしているうちに、潟町の田んぼは昔の大潟そのままの湖と化して稲穂を見ることすらできない状態になってしまいました。

 潟町の庄屋、八木十右衛門が意を決して、数度にわたり代官所へ救助を願い出ましたが「駄目だ。」の一点張りで、すがる綱さえなくなってしまいました。

 その頃でした。奥州酒田港から、米俵を満載した船が、今町(今の直江津)の港に入っておりました。その船(弁財船)の船頭と八木十右衛門が、たまたま出会いました。
 八木十右衛門は、船頭に潟町一帯の惨状をつぶさに話をし、何とか助けてほしいと頼みました。話を聞いた船頭、亀田伊兵衛なる人は「今は大阪へ向かうところなので、すぐには駄目だが、酒田へ帰って、米を集めて運んできましょう。」と約束してくれました。しかし潟町の人々は、その話を半信半疑で聞いておりました。

 ところが、幾日後のある日、潟町の沖合に弁財船が姿を現しました。米俵を満載して潟町へ運んで来でくれたのでした。

 酒田へ帰った亀田伊兵衛が、酒田の豪商達き説いてまわり、米を集めてくれたものでした。米俵の有り難みはいうまでもなく、涙を流して喜び合いました。

 早速村役人衆が集まつて相談し、感謝が気持ちを込めたささやかな宴を開きました。その宴席で、亀田伊兵衛が、つと立ち上がり「酒田高野の浜、米ならよかろう」と朗々と歌いながら踊り始めました。

 その動作は、いかにも優美であり、調和がよくとれているので、人々は見とれているばかりでしたが、やがてそのうち、一人二人と立ち上がり、見よう見まねで踊り始めたのでした。

 潟町において弁財船の米大舟踊りが踊られたのが実にこの時が始まりでした。その後一度、亀田伊兵衛は酒田へ帰りましたが、よほど潟町の人情が気入ったのでしようか、ついに妻子を連れて潟町に永住することになり、現潟町二区小山接骨院の裏に居を構えました。

 そして、春秋の神明宮のお祭りには陣頭こ立って、青年衆達にこの米大舟踊りを教えました。それから後のことですが、伊兵衛は大病にかかり、寛延3(1750)年の6月2日、帰らぬ人となりました。

 柿崎の善導寺住職さんによつて葬儀が営まれ、潟町の花光庵の墓地に手暑く葬むられました。伊兵衛には、三人の子供がおりました。

 上の二人は早死しましたが、末子の弥五衛門は文政3年(1820)に亡くなっております。

 昭和37年7月3日、潟町米大舟保存会では、永く伊兵衛の遺徳を偲ぶため、潟町公民館前に彰徳碑を建てました。またお墓は昭和47年、花光庵から潟町西念寺の墓地に移し変えられました。

  現在、米大舟は潟町と土底浜の地区のお宮さんの秋祭りに盛大に踊り継がれております。

 
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