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酒田へ帰った亀田伊兵衛が、酒田の豪商達き説いてまわり、米を集めてくれたものでした。米俵の有り難みはいうまでもなく、涙を流して喜び合いました。
早速村役人衆が集まつて相談し、感謝が気持ちを込めたささやかな宴を開きました。その宴席で、亀田伊兵衛が、つと立ち上がり「酒田高野の浜、米ならよかろう」と朗々と歌いながら踊り始めました。
その動作は、いかにも優美であり、調和がよくとれているので、人々は見とれているばかりでしたが、やがてそのうち、一人二人と立ち上がり、見よう見まねで踊り始めたのでした。
潟町において弁財船の米大舟踊りが踊られたのが実にこの時が始まりでした。その後一度、亀田伊兵衛は酒田へ帰りましたが、よほど潟町の人情が気入ったのでしようか、ついに妻子を連れて潟町に永住することになり、現潟町二区小山接骨院の裏に居を構えました。
そして、春秋の神明宮のお祭りには陣頭こ立って、青年衆達にこの米大舟踊りを教えました。それから後のことですが、伊兵衛は大病にかかり、寛延3(1750)年の6月2日、帰らぬ人となりました。
柿崎の善導寺住職さんによつて葬儀が営まれ、潟町の花光庵の墓地に手暑く葬むられました。伊兵衛には、三人の子供がおりました。
上の二人は早死しましたが、末子の弥五衛門は文政3年(1820)に亡くなっております。
昭和37年7月3日、潟町米大舟保存会では、永く伊兵衛の遺徳を偲ぶため、潟町公民館前に彰徳碑を建てました。またお墓は昭和47年、花光庵から潟町西念寺の墓地に移し変えられました。
現在、米大舟は潟町と土底浜の地区のお宮さんの秋祭りに盛大に踊り継がれております。
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